「海外旅行に行きたいけれど外国語に自信がなくて…」そんな人は、英語どころか日本語の読み書きもできないのに一人で南米に移住した人たちがいたことを思い出してください!
【なんでも自作した日系一世】
ペルーの日系人ガイドさんから移民当時の話を聞いた話です。(ガイドさんは二世か三世なので、親の時代の話として)
日本の食材がないため、納豆や味噌、豆腐など自分たちで作ったそうです。昔の南米移民は貧しさからの出稼ぎ、または長男でなくて財産を相続できないため新天地での成功を目指して海を越えました。
日本からの輸入も当時は難しかったでしょう。
【”日本人”が信頼のブランドになるまでの苦労と教育】
第二次大戦の時代には日本からの移民は「敵性外国人」として収容所に入れられたそうです。二世くらいまでは日本とペルーの二重国籍を持っていたりします。
https://ja.wikipedia.org/wiki/日系人
日系一世の人々は、貧しくても子供たちの教育にはお金をかけ、「誠実たれ」と子供たちに言い聞かせていたそうです。それが実を結びジャパニーズへの社会的信頼度がアップして、ついには日系人のフジモリ大統領を出すまでになったそうです。
フジモリ氏は元々は教師で立候補当時は無名だったため、「当選するわけがない」と言われていたとか。しかし、テレビ演説で、一気に評価が高まったそうです。それは「日本人の顔を見せたから」「日本人なら期待できる、と思われたから」なんだそうです。このお話をしてくれたのはフジモリ氏の生徒さんだったというリマのガイド、オノジマさん。
【言葉ができないまま海を渡ったご先祖】
私の祖父は第二次大戦前にペルーのリマに移民して、人も何人も使うような農場を経営していたと聞いています。移民組では成功したほうだったんでしょうね。
祖父と一緒に移民した当時の子供たちは、いまはもう仕事をリタイアした世代で、リマでゆとりのある暮らしをしています。
私は祖父には会ったことがないのですが、ペルー添乗の際に親戚に連絡してみて、いちど会うことができました。東京に来て仕事している親戚の女性とも会う機会がありました。スペイン語の先生をしているそうです。
祖母は祖父を追いかけてあとからペルーに渡った後、第二次大戦が始まったので子供たちを連れて
また沖縄に戻ったそうです。私の母を妊娠中でした。
https://ja.wikipedia.org/wiki/沖縄県の歴史
祖母は明治生まれの女性で、読み書きができませんでした。昔の沖縄の女性なので、英語どころか日本語も話せませんでした。それでも船で地球の裏側まで行き、帰りは子連れ・身重の体でひとりで帰ってきたそうです。
「夫に会いたい」「子供たちを無事に連れて帰りたい」という強い気持ちが言葉のハンデを克服。海外旅行に必要なものは「語学」ではないという実例です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/東京オリンピック
私の母は本土復帰前の沖縄からパスポートを持って東京に働きに来ました。1964東京オリンピックの年です。
https://ja.wikipedia.org/wiki/出入国管理庁
パスポートを紛失して沖縄に帰れなくなり、やがて父と結婚したそうです。(結婚の際にはパスポートは必要なかったのかは謎)
1968年に私が横浜で生まれた時も、沖縄はまだアメリカ領でした。4年後の1972に本土復帰です。
私が見知らぬ土地でも「なんとかなるさ」と平気で行けたのは、祖母の血かもしれないですね。最初の頃は苦労しましたが、行けばなんとかなる、とも思いました。
私が「旅する気持ちで日常生活」できるのも、いまいる場所が「旅先」だからかもしれません。故郷を求める気持ちは昔から強かったですが、いまや世界中が「故郷」でもあり「異郷」でもあり、です。
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